昭和45年11月12日 朝の御理解
御神訓 一、「人の身が大事か我が身が大事か。人も我が身も皆人。」
私は今朝いつもよりも十四、五分早く目覚しのおかげを頂いて、まあ十四、五分間休めるなと思わせて頂いたらその瞬間頂きます事が、「貴方待つのも待つの内」、何か唄の文句にあります。貴方待つのも待つの内。ですから云うなら十分十五分こちらに早く出て来る訳ですね。ですから、何時もよりも十五分はいわゆる、四時の御祈念を待たせて頂くのが、多く待てれると云う事。
貴方待つのも待つの内と、五分とか十分とかでも、何時もよりか余計待たれると云う事は、それも信心の内だと。まあ例えば、私控えで三十分間待たせて頂く、待たせて頂くと云うよりも、その三十分が、私にとってはま大変有難い、ずっとその四時の御祈念を待たせて頂くと云うのが、三十分よりも四十分それを待たせて頂いた方が、有難いんだと云う事。
その十分を待つの内だと、こう云う訳なんですね。では皆さんの例えば云うならばです、例えば御祈念なら御祈念の時間に、結局間に合わせて頂いたと云う事も有難い。けれどもそれを、十分なり十五分間を早く起きて、その御祈念の時間をじっと待たせて頂くのも待つの内だと。それも修行の内だと。それも信心の内に入るのだと云う事。すぐ頂いてから本当に云わば、神乍らに十分十五分早く目覚しのおかげを頂いて居る。
はぁまちょっと時間があるからと云うて、眠ってからちょっと眠り寝過ごすと云った様な事も、やっぱありますからね。神乍におかげを頂いて今日いつもよりも十分早くお広前に着かせて頂いたと十分御祈念前、御祈念よりか前に出らせて頂いてここで靜に御祈念の時間を待たせて頂く、成程貴方待つのも待つの内だなと云う風に思わせて頂く。今日の例えば御神訓「人の身が大事か我が身が大事か人も我が身も皆人」成程自分の事を願わない者はいない。又自分の事を大事に思わない者もありません。
それは自分の事を思う事はそれこそ、その思い切であります。けれどもなら赤の他人の誰彼の事までです、ね、切に思えれると云う事も待つの内だと。それも信心の内だと。いやそう云う信心に繋がらせて頂いたらギリギリの時間に間に合うと云う事よりもね、ゆとりのあるゆったりした十分十五分は早うおかげを頂いて、ま云うならば御用の一つもさせて頂いて御祈念と、例えば云う様な事になればもっと有難い事なのだ。ね、
自分の事を願わない者はない、自分の事と下り坂は急が者はないと云う程ですけれどもです、これが人の事の為に、例えばそう云う信心の時間が持たれとか人の事の為に、自分の事として切に願えれると云う事は勿論信心の向上である。それこそが神心である。ね、その次には「天が下には他人と云う事は無きことぞ」とさえ教えて居られるのですから。ね、赤の他人と云うて居るけれどもやはり本当の事を分からせて頂いたら赤の他人じゃあない。ね、同胞はらからである。親を一つにした兄弟である。
人の身が大事か、我が身が大事か、人も我が身も皆人、なのですから。ね、「我が身をつねって人の身の痛さを知れ」と云った様なことわざがあります。ね、それがいわば親切ともなりその親切が段々高度なものになっていわゆる神心と云う事になるのですから、成程そうだなとこう。貴方待つのもやはり待つの内だと云う様な頂方全然違った意味の事ですけれどもやはり繋がって感じられますですね。そう云う風に頂いてもいい様に思います。そこでです、自分の事は切です。
ですからその自分の事を願う切な心と云うものをです少し、まあそれを削ってとでも申しましょうか、ね、自分の事を願うその事は切だけれどもその自分の思いを削ってそれを人の方へ与えれると云う様な稽古が必要だと思いますですね。いわゆる人の身を大事にする稽古なんです。そこで人の身を大事にする稽古の前になら自分の願いと云うものを少し軽くする。私は色々にやはり工夫して稽古しなければいけないと思うですね。
昨日日田の綾部さんがお参りされてたまたま丁度福岡の西岡さんが丁度ここで一緒でした。色々信心のあちらもなかなか弁舌爽やかですからね、なかなか話が弾む。綾部さんもあの様に話が上手な方ですから話がもう限りが無い程に信心話が出る。その中にです綾部さんがこう云う事を言う。今合楽では世のお役に立たせて下さいと云うスローガンの元に皆さんの信心が進められて居る。
一心の真を捧げての願いと云うその焦点が世のお役に立ちたいと云う一念その一心が、一心の真を捧げても願わなければ居られないと云う様に、段々信心が高度になって来よる。けれどもその、私の場合は又、私の周囲の人達に、ま子供やら店の方達にでもですお参りされる度に、私は申します事はです、世のお役に立つことは尊いことなのだけれど、ね、それよりも先ず先に、世のお邪魔にならない、私達に成らせて頂かなければならん事に、先ず心かけにゃいかんよと話よりますと言われる。
私はそれを聞かせて頂いてからね、世のお役に立ちたい世のお役に立ちたいと云う前に、世に悪をしよらんか世に害を為しやおらんか、自分の生き方在り方が、世のご迷惑になる事に成っておる様な事は、ないだろうかと思わにゃいけん。したら横で西岡さんがそれを聞かせて頂いてからそれこそ涙を抑えてから「はぁ素晴らしい事を聞かせて頂いた」と云うてから感動して居られました。
何十年間という間ですね、云うならばまあ磯部さんならそれこそまあ大体外交の専門の方ですからそれこそ弁舌爽やかに人を巻くと云うかねえ、そりゃもう云うならばですまあいろんな過去を振り返って見ると世の中の為どころか世の中の害になって来て居る自分と云うものが大きいことに改めて気が付かせて貰うて、過去のお詫びをせなきゃならんと云うて居られました。
世の役に立とうと云う前にね、世のお役ではなくて反対に世の害になって居るような自分と云うものを発見した。ね、お役の立つと云う前に一つお邪魔にならない自分に成らなければならない事を先ず願わにゃならんと云うて話して居りますと云うて居られました。本当にね自分の事ばあっかり云おったけど自分が邪魔に成っとらん様にあるけれど、本当に自分のこう云う生き方とか、在り方がほんとに世のお役に立つどころか。
却って害を為して居る様な事はなかろうか、そう云う事がない事を無いような、私に成ることを先ず願わせて頂くとこう云うのである。と云う様にですね、例えば此処には、云うなら人の身の事をお願いしようそう云う稽古をしようと、云う前にです、ね、今綾部さんがそう云う例えば筆法で行くならばですね、自分の事を思う事は切なのですからその自分の事を思う事切である事を少し削って行く稽古。
人の事を願う前に自分の事を少し削って行く稽古をさせて頂いたらその削られた分だけが、人の方へ重きを置かれる様に段々なって来りゃせんかと云う事なんです。ね、それが実感であるかどうか知らんが、まあそのそう云う稽古をなさって居られると思うんですけれども、所ろが高橋さんが人の事を願われる時にはですね、もう絶対これはもう自分の例えばお初穂ならお初穂の十倍はなさいますですね。
私はもう実感として、人の事を願う事がですね、あの嘘の実感じゃなくてもね、そう云う稽古そう云う精進が、私は尊いと思いますね。例えば、自分の事を百円のお初穂で願うならです、人の事そりゃもう自分のとこの、店員のなら店員の又、次の関係の事の場合なんかでも絶対そうです。高橋さんが他人の事を願いよる時には、自分のお初穂の十倍されます。私しゃ本当に信心の稽古と云う事をね、そう云う所が大事にされなければいけないと思うですね。
実感としては成程自分の事が切なのだけれどもね、切でないから自分の身を削って云うならば、ね、人の事を願うとこう云う事に成ってく来る天が下に他人と云う事はない。親が一つだとこう。ですから他人事では無い人事では無い自分の事として思うたり願うたりする事をです、親が喜ばない筈がありませんですね。自分の事は願わんでも人の事を願いよりゃ自分の方はおかげ頂くとあの昔から言われてまいりました。
だから自分の事は願わんで、人の事を願うておけばおかげを頂くと云った様なね、条件が付いてものであっては、私はさほどに効果はない、まあ稽古と云やあそれまでですけれど、ね、やはり自分の事は忘れる位にです、人の幸せが願われれる思えれると云う、そう云う心根が神様の感動を呼ぶ、神様の心に叶うのです。信心の機微とでも申しましょうかね、神様と交流する、神様に通う一つの、それはやはり練らなければなりませんと同時に信心の稽古をしよらんと、なかなかそれが。
例えばいわば、人の事を願うと云った様な事が切になって参りません。昨日一昨日でしたか、まあ四時の御祈念に、吉井の熊谷さんが朝そして四時の御祈念、そしてまた夜の御祈念に参って見えます。もう絶対参って見えます。ね、そりゃあまあ暇なお方じゃからとね、云えばもうそれまでです。けれどもやっぱり往復六里はありましょう。いくらバスとは云いながらです、ね。
成程定期券を買うてあるけん何遍乗ったちゃ只じゃからと云えばそれまでです。よくよくのことでなからにゃ側に居っても出来ることじゃありません。暇があるから出来るんじゃありません。とりわけ四時の御祈念は様々なお願いが沢山ありますが四時の御祈念だけはまあ幹三郎さんの病気平癒の事の為にお参りさせて頂きたいと云うて願いの元にお参りをして居られます。人の身の事を思われる事が切になって来た訳なのです。
だから出来るのです。その事をです、昨日一昨日でした北野の秋山さんがやはりお父さんがその事でお参りになって見えますから自分が昼の御祈念に参った、ご承知の様に自分でお商売して居られますからなかなかその四時の御祈念にお参りをすると云う事はまあやっぱ三時頃ぐらいからそのちゃんと準備しなくてはいけない。商売でもさせて頂いて居る時には三時頃は大事な時なんです、ほんと云うたら。
本当にもう一軒二軒ぐらいは回られるとこう例えば思うても四時の御祈念と云う事に成ってまいりますとね、なかなか、ちょっとそこを切り上げて来なければならん、お商売の方を。ね、だからこの四時の御祈念に参ると云う事はこりゃ難しいなあとこう思うた。その時にですね、ふと今云うその熊谷さんの事を思われた。熊谷さんがもう七十何歳にもなられてしかもその教会愛の発露とでも云おうか朝も参り昼も参る、
又そして夜の御祈念にも参って居られる熊谷さんの事を思わせて頂いたら、はあ私しゃ誰彼の為じゃあない、熊谷さんの祈りが成就する事の為に熊谷さんの思いに懸けようと思うた。そしたら先生何処から湧いて来るか分からん感動を覚えたと云うとります。ね、自分の事じゃあない、熊谷さんが朝昼晩お参りして、一つの願いと云う事の成就の為に、あの様にしておかげを頂いて居られるから。
自分が一人その応援の為に、お参りさせて貰おうと思うたら、いわば三時四時の一番大事な時間が。大事とも惜しいとも思わんで、一路四時の御祈念に間に合う事の為に、お参りが出来るようになりましたと。昨日一昨日もお届けに申して居ります。私それを聞かせて頂いて信心の心が成長して行くと云う事は有難いねと云うて話した事でした。ね、そこにはもう幹三郎ちゃんと、何とかと云う事もありましょうけれども。
それよりもとにかく熊谷さんが願って居られる事が、成就する事がもうおかげに繋がるんだ。もうそこには自分と云うものは、秋山と云うのは一つもない。ね、しかもそこにですその迫真とでも申しましょうかね、その思いがそれこそ迫る様に、自分の心の中に感動になって現れて来るとこう云うのである。どうですか、あんなもう吾が事ばかりそれも自分の願いのある時だけと云う信心とはだいぶんただ値が違う。ね。
誰だって初めはそうです。ね、けれどもねけれどもやはり信心の稽古と云う事は、今日例えば此処に只なかなか治らぬ神様は人もわが身も同じ事と仰るばってんがやっぱ我がこつと云います。けれどもそれを稽古して行くのが信心なのです。これも昨日綾部さんが言って居られました。私はまあだ一年何ヵ月ぐらいで実を言うとほんとの事は分かりません。神様の方霊様の方と皆拝みよりござるが大体霊様の方はどんな風に拝んでいいかすりゃ私は分かりません。神様の方だってそうです。
皆さんがもう本当に深々と長々と御祈念をして居られるが何を願うて居られるのであろうか、分かりませんと言うて尋ねたくないからまあ私流ですけれども、もう今私が願うと云う事はね、もう他の事はなあにも願いよりません。只息子が自分のあの丸亀と云うお醤油、酒匠ですね、酒の問屋さんですからと、私の後をね無事に引継受け継いでくれると云う事と幹三郎ちゃんの事とこの二つだけしかありません、願いが。
どうでも息子が親の後を無事に継いで呉れますように、どうぞ幹三郎ちゃんの病気平癒の事のそれを繰り返し繰り返し願うだけであって他のお願いはありません。それで私は申しました、綾部さんああたがまちっと信心しよんなはるとね、自分の息子の例えばじぶんの後を息子が継いで呉ることを願う事すら願わんごとなりますよと云うたら、そげなものでしょうかち云うてから。なら何願わんでよかごとなる。どころじゃあない、それこそそれよりももっともっとね、素晴らしいこと。
例えば貴方は日田の丸亀と云う、親から譲り受けておるところの、あのお店を自分の責任に於て、子供に譲っておかなければならないと、云うて居られるが、その責任がもっと重大なもの、もっと大きなものに成って来るのですよと。その責任とはどの様な事かと、そうですねえ貴方が大分支部の支部長さんとしての自覚、支部長さんとしての責任、その責任に於てです、例えばこれは、私が親教会におかげを頂きよった、その信者時代だったんですけれども。
毎日の朝の御祈念にお参り私がお参りをしなかったら神様が寂しがりなさる、何人かでも参って居る信者が寂しがる。これだからそう云う責任に於て私しゃ朝参りを欠かすl事が出来なかった。自分が一人くらい参らんでもと云った様なものではなかった。自分一人がお参りをせんとお広前が寂しゅうなると云う様な考え方、責任がね云うならばもっと他の方へ転化してして行く、変わって行く。ね、
はぁそうですかな、そう云うもんですかなと云うて、感心して聞いて居られました。ね、そこにはね、そこにはもう自分のこの商売を、息子が継ぐとか継がないとかと云った様な問題じゃあない。一つの教会愛なら教会愛、教会の事が一心に願われる中に、なら教会の機能と云うかその働きがです、ね、十全になって来ればそこに御信用を頂いて居る信者がおかげ頂かん筈が無い。ね、
だからさっきから申しますように教会の事を願いよりゃ自分方はおかげ頂くけんと云うものではなくてです、それがそう願わなければ居られない時にですもう自分の店の事やら自分の子供の事やらはなら例えば気にかかるからお取次頂くに致しましてもそれを繰り返し繰り返し願わんで済む様になって来るんだと云う事。人の身が大事かいわゆる自分以外の事の願いなんです。しかもそれを責任を持っての願いになって来ると云う事成って来ると信心がいわゆるスケールが大きくなりますよね。
だから今日はね、今日のいわゆる御神訓に基づいてですからね、今日皆さんに聞いて頂いた様な話はほんなこと自分の事は願われんと云う事では決してないですからね。それはもう願ってお取次を頂いてそこにいわゆる的確なおかげをそこに的確と云うが願い以上のおかげを頂いて行ってですこの神様の間違いなさが分かりその神様の心が分かって来るとですその様に段々なって来るのです。
そこで私どもに少し手が届きませんけれどもですね、人の身が大事かわが身が大事か人もわが身も皆人であると云うその実感をです持たせて頂く為に自分の願いと云うものを少し削ってからでも人の事が願えれる稽古をさせて頂こうと云うのですよ。ね、これは日日おかげを頂いて居る合楽食堂の中村さんがお礼お届けがあったんですけれども、先日銀行の方への支払いがあるから万事お繰合わせを頂くようにと云う事であった。
神様に一生懸命お願いをさせて頂いた。所がね、あのうどうしてもお繰合わせを頂けんから銀行に断わりを言うとかにゃいかん。電話が掛かけた。係の方がが出られてから、ああお金取り来るとじゃろ、今日は行かれんけん明日行くと云われた。こっちから断わる前に。お金取りに来て下さいちゅうてから電話話掛かって来たちゅてから向こうは思いなさった訳でしょう、朝早くから電話が掛かって来たから。
係の人を呼んでそうしてもしもしちゅうてから話しようとしたら、向こうの方からですね。今日ちょっと忙しいから行かれんち、そのまま電話を切りました。実を云うたら、断わりの電話じゃった。ところが先生、その明くる日になりましたら、又払えそうになかったけれどもです、ある方がちょっとこうなんか、宴会かなんかで飲みに行かにゃならん。それでその方がね、このお金を沢山持って行くと、私が必ず使うけんであんたちょっと預かっとって呉れんのと云うて。
ありゃもうこりゃあ使うとってよかのと云うて、よかよかちの金が丁度の預けて行かっしゃった、金が丁度銀行に払う金だった。もう神様のこれはまあ、度度の事ながら恐れ入って仕舞いますと云うて、お礼お届けをしとられます。そう云う例えばですね、本当に自分の身の上にそう云う様の間違いなさをはっきり体認して行きよらないとですそれこそ人の事の段かと云う事になるのです。
だからこう云う頂いて居る有難いおかげをです人にも頂いて貰いたいと思うならねやっぱり願わにゃ居られん。ね、だから先ずならわが身の上におかげを受けてでありますけれどもね、自分のわが身の上におかげを受けてがです今度はそのおかげを受ける事を自分を削ってからでも人の事が願える様に段々なりそこにその責任に於てですいわゆる、ね、綾部さんじゃないけれども、ね、
教会全体の事が願えれる様になり人の事が願えれるようになり成程人もわが身も皆人であると云う事を成程だと体験の上で分からせて頂いて願えれる様になる時神様の喜びがそこに集まらない筈がないと云う事を今日申しましたですね。一つおかげを頂いてね皆さんもちょっとした心がけなのですからやはり稽古しておるのですからその稽古をしなきゃ駄目なんですやっぱり。その事に取り組まなければ本気で取り組まなければ。
まあだ五、六回ですけれどもね、今男の楽人さん達が今五名集まっている。笙、七力、笛のもう本当に、昨日私はあの琴の方まで入れてから、いわゆる合奏ですたいね、それをしたがどうやらこうやら聞かれるですからね。私はほんに感心しました。ね、やっぱそれに取り組まなければね、出来る事じゃあないて。何十年信心しよったっちゃ、笛ば見とるだけ七力ば聞きよるだけじゃ、おかげにゃならんて。ね、
楽に取り組んで本気で稽古させて頂く事がです、ね、おかげになるのですから、私共に手の届かないごとある、例えば御教えでもですそれを、例えば本気でそれに取り組んで、稽古させて頂く所からね、自分のものになって来るのです。ね、人の事だんじゃあない、そりゃもう誰でも同じ事なんですけれども、それが段々願えれる自分の事として願えれる様になって来るそこに豊な心と云う事が云えるのじゃないでしょうかね。
「人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身も皆人」もう読み過ごし聞き過ごしすればもうそれだけのもの、そりゃそうじゃろばってんなかなか人の事まではと云うことでしょうけれども、今日此処にこの御神訓を取り上げての御教えを頂いたのでございますからね、それに本気で一つ取り組んでおかげをいわゆる頂かせて貰うよい信心の稽古をそこに今日は焦点を置いて稽古されたら有難いですよね。
どうぞ。